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武満 徹(たけみつ とおる、 - )は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。
武滿徹(-),日本20世紀古典音樂作曲家。
[出生] (1930-10-08) 日本東京 [逝世] (65歲)日本東京 [職業(yè) 更多>
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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。
武滿徹(1930年10月8日-1996年2月20日),日本20世紀古典音樂作曲家。
[出生] 1930年10月8日(1930-10-08) 日本東京 [逝世] 1996年2月20日(65歲)日本東京 [職業(yè)] 作曲家 [教育程度] 京華高等學校畢業(yè) [音樂類型] 管弦樂,室內樂,電影配樂 [活躍年代] 1951-1996年 [獎項] 日本電影金像獎—最佳原創(chuàng)音樂 1979年:愛之亡靈、熱情之秋 1986年:亂、火祭、無餐桌之家 1990年:利休、黑雨 1996年:寫樂
小簡介
?[早年] 武滿徹1930年生于東京,一個月后隨家人移居中國大連,后又返回日本。年幼時因為被征兵而沒有接受完整的教育,他在軍中對西方古典音樂開始發(fā)生興趣。日本戰(zhàn)敗后他為美軍工作,這又使他有機會聆聽古典音樂。他幾乎沒有接受過正規(guī)的音樂教育,而幾乎全靠自學作曲。
1951年創(chuàng)建「實驗工房」。
[成名] 20世紀50年代末,作曲家斯特拉文斯基訪問日本,當時NHK電臺選擇了一些日本作品播放給他聽,工作人員由于失誤,把原本不在計劃之內的武滿徹的弦樂《安魂曲》播了出來,斯特拉文斯基聽見后堅持要聽完全曲,并認為這是一首杰出的作品,更把武滿徹請去一起用餐。 [1]自此,武滿徹開始成為日本最著名的作曲家之一。 [音樂創(chuàng)作] 武滿徹的音樂受到了多方面的影響,例如具體音樂和電子音樂,德彪西和梅西安的風格,爵士樂,以及音色音樂等,他也深受日本傳統(tǒng)音樂的影響,有部分作品使用了民族樂器。他的作品基本上都是慢速度的,充滿了東方哲學的韻味。他的創(chuàng)作以器樂曲為主,管弦樂作品效果相當獨特,也有一些作品涉及到電子音樂的技術,同時他也作有大量的電影配樂,著名的包括黑澤明的《亂》。1930年10月8日生于東京。師從清瀨保二學習音樂。19歲前后與作曲家湯淺讓二和鋼琴家圜田高弘等組成藝術家社團 “實驗工房” ,并開始作曲 。1957 年創(chuàng)作《弦樂追思曲》,別有新趣,影響較大。
60年代作有由17件弦樂器演奏的《地平線上的多里亞》、琵琶、尺八和樂隊演奏的《十一月的階梯》、鋼琴和樂隊演奏的《星群》等,逐漸蜚聲國際樂壇。70年代后的作品有《鳥兒飛落到星狀的院庭》等9首管弦樂曲 ,雅樂曲《秋庭樂·一具》 ,弦樂四重奏《僅有的路》,以及不少電影音樂和室內樂作品。他的創(chuàng)作個性鮮明,音樂語言新穎獨特,在日本音調基礎上運用了西方現代音樂技法,具有時代新鮮感。 武滿徹和《秋庭歌一具》 環(huán)球唱片在世紀之交策劃了一套系列,算是這個唱片界老大頭一次成規(guī)模地在主力品牌專注20世紀下半葉的新音樂。由于這些作曲家大多跨越了新世紀,所以這個系列就被命名為20至21,大部分錄音為重版發(fā)行。首批十多張專輯中囊括了二十世紀下半葉最重要的音樂大師,譬如盧恰諾·貝里奧、皮埃爾·布列茲、菲利普·格拉斯、阿沃·帕特、梅西安、利蓋蒂、諾諾......在這些大師中,直到目前(05年)為止,入選的東方人是日本作曲家武滿徹和韓國女作曲家陳銀淑。因為這個系列還在繼續(xù)發(fā)行,是否會有更多的東方作曲家入選,目前還不得而知。 20/21系列陸續(xù)推出五張武滿徹專輯,可惜作曲家本人沒有能跨越新世紀,1996年去世,但他早已奠定了自己在二十世紀下半葉音樂史上的地位。這五張武滿徹專輯分別是《秋庭歌一具》(In an autumn garden),《我聽到水的夢幻》(I hear the water dreaming),《微光的斜紋》(Twill by Twilight),《雨打庭院》(Garden Rain),《群鳥飛臨五角園》(A Flock Descends into the Pentagonal Garden)。 《秋庭歌一具》是作曲家為日本傳統(tǒng)樂器寫作的作品,《水的夢幻》則全是西洋樂器和樂隊,風格接近印象派,風格更妥協(xié)一些,聽過人較多,作曲家瞿小松聽過《水的夢幻》專輯后,認為武滿徹不過是拿日本琵琶、尺八這類民族樂器來包裝,核心還是法國的印象派。這個評價似乎有失偏頗,因為他只聽到了武滿徹印象派的一面。而這張專輯中的作品倒是更接近瞿小松自己在新民樂運動中的實驗,用民間樂器和民間音樂技法,來寫作現代音樂作品。 武滿徹并非是學院派出身。說起來,這位作曲家曾在中國度過八年時光,1930-38,生下來不久就被父親帶到中國。八歲回日本讀書。1944年,日本戰(zhàn)敗前夕,連十四歲的武滿徹也被征召入伍,他在軍中第一次接觸到西方音樂,那是一張老唱片,錄的是一首法國歌曲。戰(zhàn)后,武滿徹在美軍基地打雜,通過美軍的廣播網,聽到大量西方音樂。16歲時,武滿徹下決心從事作曲,盡管此前,他的專業(yè)音樂訓練是空白。這位二十世紀東方的音樂大師幾乎是自學成才的。 武滿徹開始作曲的時候,追隨的是德彪西與梅西安,早期作品就顯示出貫穿作曲家一生的特點,對音高音色的敏感,旋律模式總是緩緩浮現在半音化的背景上。五十年代,先鋒派是最時髦的,武滿徹也曾嘗試電子音樂和很激進的作曲手法,譬如用兩個表演者,反復誦讀日語中的“愛情”單詞,還去錄下水的流動聲,可稱譚盾的先驅了。六十年代其作品的特色就是分離,聽起來支離破碎,有點像點彩畫法,大量用到撥奏,這點在七十年代的作品中還留下明顯痕跡。 武滿徹成名于世界樂壇,部分歸功于斯特拉文斯基,后者聽了他的《弦樂安魂曲》后,宣稱這是一部杰作。六十年代,武滿徹開始與凱奇合作。凱奇音樂技法中的那種不確定性是否影響到了武滿徹呢?也不盡然。早在五十年代末,武滿徹還沒有接觸到凱奇音樂時,就已經將偶然性引入音樂。想比起音樂技法,更重要的是凱奇那一代美國作曲家們對東方傳統(tǒng)音樂的崇拜態(tài)度,對武滿徹起到關鍵影響。作曲家于1988年回憶說,在我作曲早期,總掙扎著避免日本音樂的影響,以為那才是音樂現代化的道路。而在和約翰·凱奇交往后,我轉而意識到自身傳統(tǒng)的價值。 武滿徹的音樂就是東西方因素沖突對立的結果。不同文化背景下的音樂是無法完全融合的,必然有著重重的矛盾沖突。武滿徹的音樂價值,正是來源于這種沖突和緊張。 1966年,武滿徹第一首為純粹為日本傳統(tǒng)樂器作的音樂會作品《蝕》問世,由日本兩位音樂家,一個尺八(橫山勝也)、一個琵琶(鶴田錦史),在西方廣為演出,大大提高了日本現代音樂在西方的地位,武滿徹從此也被視為東方現代音樂家中的代表。 經過多年的掙扎,武滿徹一直沒有找到令他滿意的出路。直到他遠離日本,在歐洲定居,有了距離之后,他才清楚意識到他的音樂一輩子也無法擺脫日本文化的影響。作曲家陳其鋼也表達過類似的意思,音樂家、特別是作曲家,是無法逃脫本民族的思維方式和母語的,這既是他的限制,同時也是他的依靠。武滿徹也是如此,人們發(fā)現,即使在他最激進的作品也沒有擺脫東方音樂的特點,沒有西方式的邏輯發(fā)展,一切都是靜態(tài)的,緩慢地循環(huán)。 專輯《秋庭歌一具》中最重要的作品,當屬標題所示的《秋苑》(In an autumn garden)。它在日文原文中,被稱為“秋庭歌一具”?!肚锿ジ枰痪摺吩谖錆M徹的所有作品中占有一個特殊位置,這是為傳統(tǒng)的日本雅樂樂團而作的,日本雅樂最早傳自中國唐朝,也是當今保留唐樂最完整的音樂形式。一千年來,雅樂一直是日本的宮廷音樂。韓國宮廷也保留了唐朝音樂的一些特色。唐樂在中原失傳,今天我們要了解唐樂,只得去韓國和日本。這的確是很值得玩味的文化現象。日本雅樂的樂器包括尺八、笙、簫、十三弦古箏、鼓、鑼。武滿徹的《秋庭歌一具》力求忠實雅樂的本真風貌,可以說是武滿徹最日本化的一首作品。雅樂本真的風貌靠樂器音色的組合來傳達,武滿徹說:我并不想控制音朝某個固定方向運動,我只是釋放它們,讓它們自己運動起來?!肚锿ジ枰痪摺窢I造的就是一個靜態(tài)的畫面,肅殺悲涼。
武満は多くの映畫音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験?試行する場としている。武満自身、無類の映畫好きであることもよく知られ、映畫に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。
琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー?ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いたのは映畫『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映畫『暗殺』でプリペアド?ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映畫『怪談』(監(jiān)督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド?ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス?クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の橫山勝也との共同作業(yè)を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー?ステップス』その他に繋がった。
上記映畫においては、映像と音楽?音響の同期?非同期が考察されている。例えば『怪談』では第1部「黒髪」で、主人公の武士が腐った死體を見て慌てて逃げ出すが、その際に床の木が腐っていて踏み外す。そこまでの足音はSEとして自然音らしく処理されているが、その踏み外した瞬間に、スタジオで作られたテープ音楽へと音が変わる。『暗殺』では主人公とライバルが剣道の試合をし、そこでの竹刀の音や足音は普通のSEだが、試合が終わって主人公が竹刀を壁にかける瞬間から、プリペアドピアノを変調したテープ音楽になる。映畫の観客はそれらの場面で「バキッ」とか「カチャッ」という音が鳴ると思いきや、それらの期待した音に似つつも音楽として処理される別の音響へと音の聞き方が変わる。そこから繋がる場面では音楽としてそれらの音が継続されるが、もはや聴き手はそれらの音をSEとしては認識しない。どちらもSEと良く似た音素材によるテープ音楽だからこそ可能な音響?音楽的処理である。
また2臺のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ獨奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映畫『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監(jiān)督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏會用組曲『2つのシネ?パストラル』としてもまとめている。
他にテレビの音楽としては『未來への遺産』においてオンド?マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。
1985年の映畫『亂』で、監(jiān)督である黒澤明と対立。これ以後あなたの作品にかかわるつもりはないと言い放った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている。同作品の葬送行進曲がマーラー風なのは「黒澤さんへの皮肉」とも武満は語っている。
短編ドキュメンタリー映畫『ホゼー?トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代當時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映畫音楽やテレビの音楽である。
その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映畫音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、彼の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映畫音楽用の旋律[6]をもとに、もう一枚のリメイク?ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子(『死んだ男の殘したものは』)、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。
大事件
1930年10月8日に東京で生まれる。生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小學校入學のために単身帰國し、東京市本郷區(qū)の富士前小學校に入學。叔父の家に寄留。1943年、舊制の私立京華中學校に入學。終戦直前に聞いた、(當時の敵性音楽である)リュシエンヌ?ボワイエの歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』[1]に衝撃を受ける。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に師事するが、ほとんど獨學であった。京華高等學校卒業(yè)後、東京蕓術大學音楽學部を受験して失敗。無名時代、ピアノを買う金がなく、町を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという(芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず自分のピアノを貸し與えた)。
1950年、処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表したが、當時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と酷評され、映畫館の暗闇の中で泣いていたというエピソードも殘っている。
翌1951年、詩人の瀧口修造の下で、作曲家の湯淺譲二らとともに多方面の蕓術家からなる集団『実験工房』結成メンバーに加わる(詳しくは該當項目を參照)。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」內での同人活動として、上述の湯淺譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。武満のメシアン研究の成果?影響としては「遮られない休息」「妖精の距離」(いずれも瀧口修造の詩から取られた題名)が挙げられる。また武満はテープ音楽(ミュジーク?コンクレート)として「水の曲」「ヴォーカリズムA.I」などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具體音からなる要素として捉える意識を身につけていった。
1953年、北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が病狀悪化の早坂文雄を介して武満徹に「美幌町町歌」の作曲を依頼した。この頃、病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して橫須賀市に移住した。
1957年、『弦楽のためのレクイエム』を書いた。この作品のテープを、1959年に自作の指揮のために來日したストラヴィンスキーがNHKで聴き、「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と稱賛した。この時期の作品では、他に「樹の曲」「地平線のドーリア」などが挙げられる。
1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれにあたる。この時期には西歐前衛(wèi)の動向を手中に収め獨自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド?ルトスワフスキのアド?リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン?ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、內面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。
しかし前述の「アーク」などは、確かに表面上の手法においては“オーケストラの中でそれぞれの奏者が任意の時間を選択し一定の奏法パターンを繰り返す”というやり方によってオーケストラの內部における時間軸の多層性は確保しているものの、全體のテクスチュアの動きとしては“クライマックスを求めるヒートアップとその後の拡散(クールダウン)”という一元的な視點に帰結してしまう。この問題を曲全體の汎志向性というやり方で解決に導いたのは、1960年代後半以降である。
1960年代後期には、それまで映畫音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。その中で1967年、ニューヨーク?フィル125周年記念の作曲をバーンスタインに依頼され、琵琶と尺八とオーケストラの構成による『ノヴェンバー?ステップス』を作曲した。1970年には、日本萬國博覧會の鉄鋼館音楽監(jiān)督をつとめている。
後期には、前衛(wèi)語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具體的には「グリーン(當初の題は「ノヴェンバー?ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規(guī)模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。卓越した管弦楽法と絶妙に折り重ねられた和聲は、多くの場面において時にドビュッシーを思わせながらも決してそれを安易な“過去の様式の模倣としての調性音楽”の次元にとどまらせず、獨特の「タケミツ?トーン」と呼ばれる獨自の音響へ帰結した。
モートン?フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠の物とした作曲家は彼だけであり、「タケミツ?トーン」とはこのことを指しているとも言われる。茫洋とした雰囲気の創(chuàng)出が「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う(細川俊夫)」點にあり、「実は數的秩序をハーモニーに導入している」と自らが語った晩年の創(chuàng)作軌跡の全貌は、明らかにされていない點も多い。
晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった[2]。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた彼は數ヶ月の入院生活を送ることになる[3]。退院後、「森のなかで」「エア」を作曲。これらが完成された最後の作品となった[4]。1996年2月20日、65歳で死去[5]。
晩年監(jiān)修を務め、彼の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ?メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティの一連のオープニング?コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために、「閉じた眼II」を弾いた。高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手がおこった時、高橋悠治は禮をせず、代わりに「閉じた眼II」の黃色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。
彼や指揮者の小澤征爾らの世界的な成功は、戦後の日本の音楽界の存在を世界に知らしめ、その評価を上げることとなった。
娘の武満真樹は洋畫字幕の翻訳家で、2005年からクラシック?ジャパンの副社長を務めている。