簡介:
小檔案
藤井郁彌(ふじい ふみや、 - ):リードボーカル
久留米市立南筑高等學(xué)校卒業(yè)。血液型はA型。チェッカーズ結(jié)成前は、カルコークというバンドでボーカルをしていた。高校を卒業(yè)してメジャーデビューまでの間、國鉄で働いていた。
武內(nèi)享(たけうち 更多>
小檔案
藤井郁彌(ふじい ふみや、1962年7月11日 - ):リードボーカル
久留米市立南筑高等學(xué)校卒業(yè)。血液型はA型。チェッカーズ結(jié)成前は、カルコークというバンドでボーカルをしていた。高校を卒業(yè)してメジャーデビューまでの間、國鉄で働いていた。
武內(nèi)享(たけうち とおる、1962年7月21日 - ):ギター、リーダー
福岡県立八女工業(yè)高等學(xué)校卒業(yè)。血液型はO型。高校を卒業(yè)してメジャーデビューまでの間、楽器店でヤマハのピアノのセールスマンをしており、販売成績が優(yōu)秀でチーフになった。実家はスナックで、よくメンバーが集まって練習(xí)していた。ビートルズマニア。
高杢禎彥(たかもく よしひこ、1962年9月9日 - ):ボーカル
柳川高等學(xué)校卒業(yè)。血液型はA型。低音のボーカルを得意とする。小さいころからガキ大將。保育園のときから藤井郁彌と遊んでいた仲。高校の頃から、坊主頭にヒゲを生やしていたので、當(dāng)時はとても高校生には見えなかったらしい。徳永善也をチェッカーズに入れるためにさらった時の、車を運転していたのは高杢である。後に発売された書籍「チェッカーズ」が話題に。
大土井裕二(おおどい ゆうじ、1962年11月2日 - ):ベース、副リーダー
福岡県立三井高等學(xué)校卒業(yè)、第一経済大學(xué)中退。血液型はB型。矢沢永吉に憧れてベースを始めたらしい。チェッカーズ結(jié)成前は、シークレッツというバンドでベースを弾いていた。
鶴久政治(つるく まさはる、1964年3月31日 - ):ボーカル
久留米市立南筑高等學(xué)校卒業(yè)、第一経済大學(xué)中退。血液型はA型。チェッカーズ結(jié)成前は、50'sというバンドでボーカルをしていた。
徳永善也(とくなが よしや、1964年6月7日 - 2004年8月17日):ドラム
筑紫工業(yè)高等學(xué)校(現(xiàn)?筑紫臺高等學(xué)校)卒業(yè)。血液型はA型。愛稱はクロベエ。チェッカーズ加入前からドラムの評判が知れ渡っており、たくさんのバンドから勧誘されていた。
藤井尚之(ふじい なおゆき、1964年12月27日 - ):サックス、ギター、フルート
九州産業(yè)大學(xué)付屬九州産業(yè)高等學(xué)校卒業(yè)。血液型はA型。元々ベースを擔(dān)當(dāng)していたが、大土井の加入により、サックスに転向。
この他、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、パーカッションのアンディ檜山がいた。
小簡介
メンバーが集まりバンド名を決める際に、當(dāng)時良く聞いていた外國のバンド(特にオールディーズ)のバンド名に「C」で始まり「S」で終わる名前が多かったことから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代のメンバーだったT氏。
デビュー當(dāng)初はチェックの柄の衣裝を著ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが、それは誤りである。 チェック柄の衣裝のアイディアを出したのは、當(dāng)時ヤマハのマネージャーであったS氏。
大事件
1980年、郁彌と武內(nèi)によりグループ結(jié)成。
1981年、ヤマハ?ライトミュージックコンテストジュニア部門で最優(yōu)秀賞を受賞。デビューの話があったが、徳永と尚之の高校卒業(yè)を待つことになる。
1983年3月29日上京して、目黒區(qū)のヤマハ音楽振興會の寮で生活をはじめる。9月21日、「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。
1984年、「涙のリクエスト」がヒット。ランキング番組に3曲同時ランクイン。チェッカーズは社會現(xiàn)象化し、ファッションなどにも大きな影響を與える。第35回NHK紅白歌合戦初出場。以降解散まで9年連続で紅白出場する。
1985年、映畫「TAN TAN たぬき」に出演。シングル「ジュリアに傷心」がオリコンチャート年間第1位に。ブロマイドの年間売上実績でも第1位を獲得した。
1986年、初のメンバーオリジナルシングル「NANA」を発売。この曲はNHKで放送禁止になり、話題になった。
1987年、全曲メンバーオリジナルのアルバム「GO」を発売。尚之がメンバー初のソロ活動(シングル及び同名ソロアルバム「NATURALLY」発表)を行い、これを期に徐々にメンバーのソロ活動が増えていく。一時期Cute Beat Club Bandとして活動。年末には日本人バンド初のセンターステージによるコンサートを行う。
1988年、東京ドームでコンサートを行う。
1989年、郁彌がソロシングル「Mother's Touch」を発売。自身が出演のCMソングだったこの楽曲に関しては、チェッカーズ活動期間中はソロでの音楽活動をしないという理由で音楽番組への出演を拒否した。
1990年6月、郁彌が結(jié)婚。以降解散までの間にメンバー中4人が妻帯者となる。
1992年10月9日の「ミュージックステーション」內(nèi)で、正式に解散を発表。12月にラストツアーを行い、12月31日の第43回NHK紅白歌合戦出場を最後に解散した。